人権は積極的に主張すべき理由【義務との関係】

もくもくのつぶやき

日本人は自分の権利を主張することが苦手な人が多い。

本記事では、人権の性質や日本特有の環境にも触れながら、私たちが人権を積極的に主張すべき理由について考えてみたい。

「人権」ってなに?

人権とは

そもそも、「権利」とはなんだろうか。

一言でいうと「人が正当に有している資格や利益」のことだ。こうした資格や利益は、他者から不当に侵害されないよう、法的に保護される。

たとえば、一冊の本を購入して持っていたとしよう。当然ながら、この本は自分で好きな時に読むことができるわけだが、読み飽きたら処分することも売りに出すことも、誰かに貸すのも本人の自由だ。

こうした行為は、自分に「所有権」という正当な利益があるからこそ、法的に保護されるのである。

もくもく
もくもく

法的に保護されていなければ、弱肉強食の世界になるね。

このうち、人が生まれながらにして有する、人間らしく生きるための普遍的な権利については「基本的人権」といわれる。日本や西欧諸国など近代立憲主義以降の民主主義国家においては、基本的人権が実質的に保障されている。

日本国憲法においては国民に以下のような人権を認めており、これを「侵すことのできない永久の権利」と定めている。

  • 自由権
    →精神的自由(思想・良心の自由、表現の自由、信教の自由)
    →身体の自由(苦役からの自由、黙秘権、遡及処罰の禁止)
    →経済活動の自由(居住・移転の自由、職業選択の自由、財産権)
  • 社会権
    →生存権
    →教育を受ける権利
    →勤労権
  • 平等権
    →法の下の平等
  • 請求権
    →請願権
  • 参政権
    →選挙権・非選挙権

国家がこれらを侵害するようなルールを制定することは憲法違反となり、仮に私企業や団体であったとしても認められないと解されることが多い。(私人間効力の間接適用)

なぜ人権は認められるの?

では、日本を含めた近代立憲主義以降の民主主義国家においては、なぜ基本的人権が実質的に保障されるのか。

それは、絶対王政や封建領主との闘争の中で市民が勝ち取り、発展させてきた経緯に由来する

「人権」の歴史を辿ると、イギリスにおいて貴族が王様の権利を制限したことに遡る。1215年にマグナ・カルタ大憲章、1689年に権利の章典でルール化され、貴族が「王といえども勝手に税金をとったり、市民を逮捕したりしてはいけない」ことを約束させた。

18世紀になると、市民階級の台頭を背景に「人は生まれがながらにして自由・平等であり、生命・自由・財産に関する権利を有する」と考える自然権思想が社会に大きな影響を与えた。アメリカ・フランスでは革命が起き、市民は自由権としての人権を勝ち取った。

20世紀に入ると、自由権のみでは貧富の差が拡大する”資本主義の矛盾”が発生。1919年の独・ワイマール憲法では、国が国民の生活を保障する「社会権」がはじめて明記された。

そして第二次世界大戦後には、その悲惨な戦争の反省から、国際社会全体で人権を守る動きが本格化した。1948年には国連で世界人権宣言が採択。日本国憲法においても基本的人権は「侵すことのできない永久の権利」と明記された。

このように「人権」というのは、君主制・封建制への抵抗や過去の反省を踏まえて、先人が血と汗を流しながらも勝ち得たものなのである。

もくもく
もくもく

人権は一朝一夕ではなく、徐々に確立されていったんだね。

義務との関係

「義務を果たさない者が人権を主張するな」と言う人がいる。

だが、人権は義務を果たさなければ与えられないという性質のものではない。

人権とは、人が生きる上で必要不可欠な、各人固有の基本的権利だからだ。義務を果たす・果たさないに関係なく、誰かによって剥奪されることもなく、誰しもがその権利を主張できる

権利の主張が苦手な日本人とその克服

日本人は権利の主張が苦手だといわれる。

周囲の目を気にして権利を主張しなかったり、トラブルを起こしたくないと考え、権利を放棄するケースはよく聞く話だ。

だが、こうした状況は、私たちの社会をより息苦しくしていないだろうか。

主張したいけれど主張できない。これにより他にも主張したい人が主張できなくなるという負の連鎖が、今の日本の閉塞感にもつながっているように思う。

もくもく
もくもく

言いたいことを言えない社会ってしんどくない?

なにもこうした状況は今に始まった話ではなく、筆者はその原因の一つに旧態依然とした日本の教育にあると考えている。私たちは、集団行動やブラック校則といった”出る杭を認めない”環境にすっかり慣れきってしまっているのだ。

輪を乱す者を許さない風潮をつくり出し、権利を主張する者に否定的な目が向けられてしまうのも、これまで受けてきた”日本式教育”が大きく影響しているだろう。

それだけでなく、文化的な要因もあるだろう。権利という考え方は「おしとやか」「空気を読む」といった、日本の文化的な美徳とは相反する考え方だ。

いざ「権利を主張してもいいですよ!」と言われてもすぐには受け入れにくいし、周りの目を気にしてしまうのも理解できる。

だが、ここは私たち”権利者”が強くなる必要があるだろう。残念ながら、権利というのは権利者自らが主張し行使するものであり、待っていても誰かが代わりに行使してくれるわけではないのだ。

市民が絶対王政を打倒して人権を勝ち取ったように、人権は主張し行使し続けなければ、管理者にとって「管理がしやすい」だけの都合の良い存在に過ぎない。

人権の性質を理解した私たちがすべきことは、ただ一つだ。言われたことをやるだけの”お利口さん”になるのではなく、主張すべきことはきちんと主張できる”自立した人間”になることなのである。