安定思考の押し付けが”害悪”な理由(Z世代のホンネ)

Z世代の働き方

多くの日本人は、まるで”コピー&ペースト”したかのように、周りの人間と同じ道を歩みがちだ。

高校卒業後は進学→就職→結婚→子育て→マイホーム購入…といった、目指すべき「共通認識」のようなものがある。

しかし、人々はなぜそうした「安定思考」を求めたがり、なぜ押し付けようとするのか?

今回は、同調圧力が強い日本において、既定路線を打破しようとする若者に立ちはだかる壁と、安定思考の押し付けがもたらす悪影響について考えていきたい。

「みんな」がやっているから安心?

そもそも、「みんながやっていること=正解」なのだろうか?

20代で結婚をし、子育てをし、30代でマイホーム購入、40代は働き盛り…こんな言説が常識のように日本社会を包んでいる。

この典型的な人生観に「人口密度」が高いのはなぜか。

本来であれば、人の生き方や考え方はそれぞれであり、画一的である必要はないはずだ。

日本においては、一人ひとりの生き方が国家に強制されているということもない。

にもかかわらず、人生観に偏りがあり、それを自ら選択している人が多いのはなぜだろうか。

人々が「安定思考」に走るのはなぜか、その原因を突き止めてみたい。

多くの人が「安定思考」を選択する理由

合理的選択説

まず一つは、「安定こそが自らの利益にかなう合理的なもの」として選択をしている説である。

例えば、「仲間外れになることで不利益を受けるかもしれない」「社会的な居場所がなくなるかもしれない」といった理由で、他者と似た人生を営みたいと考える。

これにより、社会における自分の地位が、周りの人と同レベル以上であるとの承認を得られ、安心感が生まれる。

さらに、社会の一員として社会に貢献をしているという「自己満足」に浸ることもできる。

自分という存在が、社会にとって積極的(ポジティブ)な役割を果たすことを理想としている人もいるだろう。

これは、一見いいことのように思えるが、メリットばかりではない。

最大の欠点は、個人が「社会の波に全て任せきり」ということだ。

社会全体が悪い方向へ向かっていった時、社会に疑いを持たない人々は、自らの誤ちに全く気がつかない。

「正常性バイアス」という現象を聞いたことがあるだろうか。

危険な状態におかれていても、「大したことじゃない」と考えてしまう人間心理のことだ。

これは、構成する人が多ければ多いほど、バイアスがかかりやすいと言われている。

もし社会全体が誤った方向へ突き進んでいるにもかかわらず、自らの意思で方向性を見出せなければ、誤りそのものに気がつかない。

なかでも、日本はこうした傾向が強いと考えている。

失われた30年で、実質賃金は年々低下。日本の国際的な競争力は失われた。

それを、有権者である国民が自ら選択していたのである。

社会の一員であることを「誇り」や「ブランド」として考える反面、相対的な評価が低下していることに気がつかない「井の中の蛙」になりつつある。

環境起因説

次は、自分が生まれ育った環境に起因する説だ。

家族や友人、職場の人間関係など、人はしがらみが多ければ多いほど動きづらくなる。

特に、「縦社会」の傾向が強い部分社会においては、この傾向が顕著に表れるだろう。

例えば、「両親の言うことが絶対」という家族観を植え付けられた子供は、両親に逆らおうとしなくなる。

学校においては、大声で怒鳴る教員がいるところでは、目立たないように振る舞うといったこともあるだろう。

こうした上位者のパワーによる”萎縮”が、選択肢の幅を塞いでしまう。

日本では、ようやく体罰やDVといった問題への意識が高まりつつあり、こうした要因は減りつつあるものの、まだまだ残っているのが現状だ。

それだけでなく、特に気がつきづらいのは、周囲に悪気がないパターンだ。

例えば、両親が正社員で平凡な生き方をしてきた場合、安定へのススメを悪気なく押し付けてしまうことがある。

「安定した仕事をしなさい」「いい大学に行きなさい」などと言われ続ければ、経済的に自立ができていない環境下において、現状打破が難しくなる。

思考停止説

もう一つ考えられるのは、「やりたいことが特にないから、周りと同じにしておこう」という説だ。

特に、Z世代にこの傾向が強く、夢や希望がない人が多いと感じている。

根本をたどれば、今の日本社会に失望し、現状打破の気力そのものを失わせているように思う。(そういう意味では、環境起因説にも近いところはある。)

安定思考が常識の現代社会は、社会に失望した若者の受け皿になっているようにも見える一方で、長期的にみて損失は大きいと考えている。

新しいことに挑戦する若い人が減れば、稼ぐ力がなくなり、国力はますます低下する。

国力が低下すれば、社会に失望が広がり、ますます国力が低下する…という負のスパイラルに陥ってしまうのだ。

本来、「個性を尊重し、だれでも挑戦ができる社会」をつくるべき大人たちが、自らの責務を放棄し、社会を失望に陥れているのだ。

挑戦する人を阻む社会は、本人にとっても、社会にとってもマイナスでしかないことを認識する必要があろう。

現状打破を阻む壁

どの説も一定程度説明はつくように思えるし、実際には複数の要因があるだろう。

しかし、このような状況で大切なことは、本人が”心から望んで選択をしている生き方なのか”ということだろう。

もっと言えば、社会に”言わされて”いる生き方ではないのか?

今、子供達に向けて大人がやるべきことは、そんな疑問を投げかけ続けることだ。

他者と同じ立ち位置にいることで一時の安心を得ることに、どれほどの価値があるのだろうか。

「親が安心したい」というエゴを、子供達に押し付けているだけではないだろうか。

社会構造は日々刻々と変わっているのに、「安定こそ全て」と考える旧来的な考えの押し付けが、若者たちの自立を阻害しているのだ。

安定から自立へ

しかし、同調圧力の強いこの国で、ここにきて安定志向を打破する兆しが見え始めた。

それは、SNSやインターネットの普及だ。

大人たちの「安定」を求める姿勢を横目に、マイノリティである若者たちが反旗を翻しつつある。

「投資なんて怖いものはやめなさい」という大人たちを背き、投資をすることが当たり前になった。

同じ会社で定年まで働くという常識は、転職活動の普遍化により覆された。

「シルバー民主主義」とも揶揄される国内政治においても、SNS上の影響を無視できなくなり、選挙結果さえ動かすものとなった。

独立についてYouTubeで検索し、自ら勉強しやすい環境も整った。

そして、結婚→子育て→マイホーム購入…といった古来「当たり前」とされてきた価値観が崩れつつある。

こうした中、「社会」に自らの存在意義やブランドを見出していた人々は、居心地が悪くなるに違いない。

そして彼らは、「世の中はそんなに甘くない」「安定が一番」「俺の若い頃は〇〇」といった、無価値な言論を自信満々に言い出すことだろう。

マイノリティである若者はそれに屈してしまうのか、抗うことはできるのか。

安定志向打破へ、社会は動き始めようとしている。

信念を持ち行動できるか

今後はますますAI(人工知能)が加速的に普及し、人間の手が必要な仕事は減っていく時代が訪れる。

その時、「安定」を信じ続けた人々は、自らが離島に置いていかれていることに、ようやく気づくことになるだろう。

大切なことは、周りに流されず、今の自分にとって合理的で正しいと考える方向に一歩を踏み出してみることだ。

少なくとも、世間一般で「成功者」と言われる人は、一般人とは何かしら異なる行動をしているはずだ。

自分の選択に確信を持ち、勇気を出して歩みを始めてみよう。