「若手社員はすぐに辞めてしまう。」
「最近の若い者は、根性がない。」
実際、新規学卒の3人に1人は、入社後3年以内に辞めてしまうというデータがある。
果たして、これは若手社員が打たれ弱いだけという、単なる「甘え」なのだろうか。
それとも、すぐに辞めさせてしまう社会構造や環境に原因があるのだろうか。
同世代である筆者が、この問題をたどってみたい。
仕事観は人それぞれ
人はなぜ働くのか、考えたことがあるだろうか。
会社目線で言えば、「自社の売上貢献のため」と明確に定義できるかもしれない。
しかし、働き手目線に立って考えてみるとどうだろうか。
社会に貢献するため?やりがいがあるから?
あるいは、生きていくための金銭獲得手段?
人それぞれ、働くということの意義は異なるだろうし、その比重や価値観に温度差があって当然だ。
社会主義国家のように、国家のために、決められた仕事を決められた分だけ働かなければならないというルールは存在しない。
日本をはじめとした自由主義国家では、働くことの意義は自分自身で見出すものであり、一人ひとり歩むべき道は違うということを念頭に置いておく必要がある。
そうした中で、社風が合えば続けたいと思っている人もいるだろうし、定年まで働き続ける前提で入社する者もいる。
もちろん、長く働き続けるつもりでも、何かしらの理由がきっかけで断念せざるを得なくなる状況もあり得る。
また、会社という社会が構成されれば、その社会に強く帰属したいと願う人もいれば、淡白な付き合い方や距離感を求める者もいる。
結局のところ、人生観や仕事観は、自分の生きたいように生きることが最も重視されるべきであって、仕事をどう位置付けるかは「個人の自由」であることはいうまでもない。
これは当然、若手社員にもベテラン社員にも、平等にいえることだ。
ただし、筆者は、社員としての責任放棄を肯定しているわけではない。
ここでは、あくまで権利としての自由の話をしているだけに過ぎず、それが社会的責任放棄の免罪符になるわけではないということだ。
筆者は、各人の価値観は違って当然だし、価値観の違いは認められるべきということを言いたいだけである。
会社が若手を辞めさせていないか
よく、「働く意義」を話したがる大人がいる。
「皆さんがこれから働くようになると…」
「社会人としてできていなければいけない…」
こんな言葉をよく口にする大人を、筆者は「警戒」してしまう。
もちろん、社会を経験してきた人のアドバイスとして、貴重な意見かもしれない。
しかし、働く意義を「一例」として紹介することはできても、それを人に押し付けることはできないというのは、前述のとおりだ。
大人たちの「押し付けがましい仕事観」に辟易としている人もいるだろう。
労働売り手市場で若手社員が「自由」に仕事を選べる環境下において、「自由を狭める」価値観は否定的に捉えられがちだ。
こうした、会社側に若手社員を辞めさせるような「原因」はないのかということを探ってみたい。
まず、会社側には、求人票に書かれている通りのことをすべて適正に”履行”できているかということが挙げられる。
若手社員から見て、応募時と同じ条件で雇用できているか。
応募時と入社後でギャップを感じる若手がいるのならば、そのギャップを埋めようと会社側は尽くしたのか。
こうしたことが会社側には求められ、これらの欠如がないか、言い換えれば会社側に「非」はないのかということを考える必要があろう。
会社側からは「理不尽な要求」を突きつけておきながら、若手が辞めると「甘え」というのは、自社を顧みることができていないことの表れである。
置かれている状況の違いを認識すべし
いやいや、そんなこと言ったって、「自分が若い頃ならこの程度は耐えられていたぞ」という気持ちはわかる。
しかし、置かれている状況が全く違うという想像力に欠けていないか。
例えば、昔であれば体罰が当たり前だった学校も、今では一切許されない。
昔であれば、夫が働き妻は家庭に入るのが一般的だったが、今は違う。
固定電話でやり取りをしていた時代と、SNSで瞬時に出来事が共有できる時代では、全く異なる。
このように、ここ数年で社会構造も価値観も大きく変わった。
そのような社会の変化をさしおいて、「昔の自分だったら…」と「たら・れば」を語るのは乱暴すぎないか。
環境の変化を受け若手社員の価値観が変化したに過ぎず、一概に「弱くなった」ということはできないだろう。
繰り返しにはなるが、仕事に情熱を持って取り組みたいと思う人もいれば、仕事はほどほどにしてプライベートを重視したいという人もいる。
自由主義社会が浸透するにつれて、後者が受け入れられる社会になったとポジティブに考えるべきである。
戦時中は「月月火水木金金」というように、休むことは許されない価値観にあった。
それが、次第に労働者の権利が認められるようになり、「ワーク・ライフ・バランス」「有休消化率」という言葉が浸透したのも、仕事とプライベートのバランスを大事にする価値観が受け入れられるようになったからこそである。
こうした、昔と今で置かれている状況の違いを認識した上で議論すべきと思われる。
本当の「甘え」とは?
若手社員が失望を感じた時、退職か継続かを真剣に考える。
これは、単なる「甘え」ではなく、極めて「合理的」な発想だ。
特に、社内での評価が高い優秀な人ほどすぐに辞めていくという場合は、要注意だと思われる。
というのも、自分の人生の貴重な時間を、ストレスの溜まり続ける環境に居続けることこそ、無駄な時間の浪費であると考える傾向にあるからだ。
最近の若者の間では、「ダイパ」という言葉がよく使われる。
かけた時間に対して、どれだけの効用・満足度を得られるかといった概念だ。
自分にとって意義の感じられない仕事であれば、早めに退職をし、より人生が豊かになる時間の使い方をしたいと「合理的に」考える。
私が思うに客観的に「甘え」と称してよいのは、突発的な退職だけだ。
しかし、こうした突発的な思考に陥る人間は一定数いるが、それはいつの時代も一緒だったではないか。
やはり、筆者は若手社員に限って「甘え」が蔓延しているといえるだけの材料はないと考えている。
強いて言うならば、若い世代は、合理主義的・自立的に考える傾向にあるということだろうか。
若い世代の価値観からすれば、自分にとって無価値な労働時間に対して時間をかけ続けることこそ「現状からの変化を恐れる甘え」と考えるのだろう。