私たちにとって、最も近しい存在である”家族”。
家族という共同体を運営するにあたっては、自由や権利を制約したり、時には放棄せざるを得ない場面も少なくないだろう。
そこで今回は、家族における個人の自由とその制約について考えてみたい。
これって自由?
自由というのは、近現代社会において最も重要な価値観の一つであり、万人に保障されるべき権利だ。
一人ひとりは苦役や拘束を強制されず、他者から自由を干渉されない「人権」を、生まれながらにしてもっている。現代に生きる私たちは、こうした権利を(無意識のうちに)享受し、不断の努力によって、その権利の維持・実践に努めている。
その一方で、「自由」という基本原則に対抗するものがあらわれた時、私たちはどのように対処するだろうか。抵抗するのか、はたまた渋々受け入れるのか。
特に、家族という「社会の最小単位」かつ「密室」という環境において、こうした衝突が発生した場合、その問題は可視化されにくい。このような状況下では、個人の自由や人権が侵害され続ける状態も起こりやすい。
いくつかのケースを想定してみよう。
例えば、夫婦間でお財布を共有したり、夫婦でお金の使途を制限している場合だ。夫婦双方が完全に同意しているならばよいが、本人の意思に反してこのような制限が行われている場合、これは許されるべきだろうか。
はたまた、子どものゲーム時間を制限し、学習時間を定めることは、子どもの自由に対する合理的な制約といえるのだろうか。
もちろん、「家族なんだから、自由は制限されて当たり前」「家庭内秩序を維持するためには一定のルールが必要」「子どもの将来のためだから、制約はあって然るべき」といった考え方は、ある程度理解できる。
だが、家族という共同体の中であっても、一人ひとりは独立した個人であることはいうまでもない。本人の意思に反して自由を制約することはどこまで許されるのか、本記事を通じて考え直すきっかけとしてみたい。
「自由」の歴史
個人の自由を検討するにあたって、まずは自由の歴史について簡単に振り返ってみたい。
近現代社会における自由とは、一言で表すと「他者の意思ではなく、自己自身の意思に従って行為すること」だ。現代では、ここから派生して消極的自由や積極的自由といった解釈に細分化されることもある。
自由という概念は、英語では「Liberty」や「Freedom」といった言葉で表されるが、当初は「民族的な共同体に属する者」を指す言葉であった。
その後、中世〜近世における封建制社会において「支配する集団」と「支配される集団」が明確に分かれる中、”支配されない状態”を指す言葉として定着するようになった。これが、現在の「自由」という言葉の原型だ。
近代以降は、国家と国民の関係を論じた「社会契約説」が有力に唱えられるようになり、併せて「自然権」という概念が説かれるようになる。自然権思想とは、人は生まれながらにして自由かつ平等であり、生命・自由・財産に関する権利を有する(天賦人権)と捉える思想だ。
このように歴史を振り返ってみると、現代の普遍的価値観ともいえる「自由」は、昔から当たり前に行使できたものではなく、長い歴史を経て先人が勝ち取り、それを維持しようとする人々の意識と行動によって形成されたものであることがわかる。
夫婦と個人の自由
自由の歴史を踏まえた上で、まずは夫婦間における個人の自由について考えてみたい。
ひと口に夫婦といっても、各家庭によってその関係値は様々だ。出会い方や夫婦の形、夫婦の距離感は画一的ではなく、”正解”は存在しない。
一昔前であれば「理想の家族像」なるものが存在したが、すっかり形骸化し、若者を中心に多様な家族観が許容されるようになった。

近年では「同性婚」の議論も盛んだね。
だが、いかなる形態であったとしても、夫婦というのは個人間「契約」であることには変わりない。現行法に基づけば、夫婦は両性の合意、すなわち本人の自由意志によって法的効力を生じさせるものである。
「夫婦になること」は決して誰かから押し付けられるものでもなく、当事者同士に婚姻の意思があるかどうかが、唯一の要件なのである。
では、当事者間の意思によって成立した夫婦の間において、個人の自由や人権の制約はどこまで許されるのだろうか。
いうまでもなく、DV(ドメスティック・バイオレンス)や過度な束縛といった類の制約は、相手の意思に反して自由や権利を大きく侵害するものだ。いくら夫婦間とはいえ、こうした行為は、法的にも社会的にも許されるものではないだろう。
だが、そこまで極端でなかったとしても、「携帯電話を本人の意思に反して覗く」「お金の使途を制限する」「関わる人や行動を制限する」といった場合はどうだろうか。
こうした場合の判断基準においては、当該制約に「事前の合意があり」かつ「客観的に合理的かどうか」を基準として考えてみるべきだろう。
いうまでもなく、制約者が被制約者に対して、当該制約に対して「客観的かつ合理的な説明」を事前にしていることは大前提だ。その上で、夫婦だからといって個人の自由を際限なく制限して良いわけもなく、その制約の「目的が合理的か」「手段が目的を達成するための必要最小限度か」を精査し、双方が合意していることが必要となる。
先ほどの例になぞって考えてみると、携帯電話の覗き見は事前の合理的な説明がなく「プライバシー権の侵害」ともいえるし、当事者同士の合意がないお金の使途制限は「財産権の侵害」と考えられる。
もし、こうした制約が自分の自由や権利を不当に侵害している(あるいは侵害しそうな)状況であれば、当該制約を排除するよう、相手へしっかりと主張していく必要がある。「権利の上に眠るものは保護に値しない」というのは民事の原則であるから、主張することそのものが大切だ。
そして、自分自身も、相手の自由や人権を必要以上に制限しないように努める必要がある。夫婦は対等な契約であるということを心得て、信義誠実の原則に従い、双方が良好な関係を構築していく姿勢が大切だ。
保護責任と子どもの自由
夫婦は本人の自由意志に基づく契約によって成り立つのだとすれば、子どもの自由はどのように解されるだろうか。
「親ガチャ」という言葉に表されるように、子どもは、自分自身で家族を選択することができない。さらに、親は子の保護責任を有していることから、子どもが何か問題を起こした場合には、親が全面的に責任を負うことになる。
では、子どもは親を選べず、親が全ての責任を負う以上、子どもに自由や人権は与えられないのだろうか。
そのようなことはない。1989年に採択され、日本も批准している「子どもの権利条約」では、子どもは権利の保有者であり、それを守る義務の担い手は国(おとな)であるとされている。
そして、人権は義務と引き換えに与えられるものではなく、何かをしないからといって取り上げられるものでもないと解されている。

子どもにも自由や人権は保障されるのね。
しかしながら現実問題として、親に生活を依存している子どもにとって、自由や人権の実質的な保障度合いは親の意向に完全に左右される。圧倒的な経済力の差に加え、経験値の差、各家庭の教育方針・環境によって、子どもが親に意見できない場合や、意見できたとしても全く聞き入れてもらえないといったことは起こりがちだ。
これでは、本来保障されるべき子どもの自由や人権も、絵に描いた餅になってしまう。経済力や経験値のない子どもであったとしても、一人の人間として意思を汲んであげることが必要となる。
一方、必ずしも子どもの意思を鵜呑みにすることが、正しい教育方針とも言い難い。経験則や親の立場から、時には親の意思を優先すべき時もあるだろう。
そこで、子どもの自由・権利を制約する際には、子ども自身の意思を尊重したうえで、当該制約が”真に”子どもの利益に適っているかを精査することが必要だ。
そして、当時としては合理的な制約だったとしても、現時点において合理的か(合理性が失われていないか)を定期的に見直し、子どもと対等な立場で話し合う時間が必要だろう。
相手が子どもだからといって、なんでもかんでも親の意向に従わせるのではなく、本音ベースで話し合う機会を設け、子どもの意思を尊重することが大切だ。
まとめ:自由の性質と合理的制約
私たちに与えられた、重要な価値であり権利としての「自由」。家族という共同体を運営するにあたって、時には制約をせざるを得ない場合もあるだろう。
しかし、家族内のルールだからといって、なんでもかんでも制約が許されるわけではない。制約にあたっては、その制約が合理的な範疇でおさまっているか、過度な制約となっていないか、都度立ち止まって考える必要がある。
家族といえども、それを構成しているのは一人ひとりの人間だ。「親しき中にも礼儀あり」という言葉が示すように、いかなる時も信義誠実の原則に従い、個人の自由や人権を不当に制約することがないよう、相手の立場に立って考える姿勢が大切ではないだろうか。

