日本の学校教育が”オワコン”な理由〜教員の不祥事と教育の構造的欠陥〜

もくもくのつぶやき

大声で怒鳴る教師、理不尽な校則、いじめを隠蔽する体質、体罰や犯罪が後を絶たない現場…。教育者による不適切な振る舞いが、教育への信頼を失墜させている。

なぜ、こうした問題は繰り返されてしまうのだろうか。たどっていくと、個々の問題にとどまらず、学校教育システム自体の”構造的な欠陥”が見えてきた。

今回は、日本の学校教育における構造的欠陥の全容を解明しつつ、信頼回復に向けた取り組みの可能性について探っていきたい。

残念なニッポンの教育事情

まずは、日本における教育の現状を把握するところから始めていこう。

世界トップレベルの教育水準

まず、教育水準について見てみると、実は日本は他国と比較しても非常に良好なことがわかる。

OECDが公表したPISA(生徒の学習到達度調査)において、数学的リテラシー・科学的リテラシーでは、日本は世界トップレベルを維持し続けている。読解力においてもOECD平均より高得点のグループに位置しており、日本は国際社会の中でも「優等生」だ。

詳細は、PISA2018における調査ポイントの資料を参照してほしい。(文部科学省・国立教育政策研究所、令和元年12月3日)

もくもく
もくもく

日本の学校教育はうまくいっているように見えるけれど…?

だが、問題はここからだ。高い教育水準を得るうえで犠牲となっている「副作用」はないだろうか。

これを考える上で参考となるのは、お隣韓国における状況だ。

韓国は日本同様に高い教育水準を維持しているものの、行き過ぎた受験戦争で若者は疲弊し、格差の拡大が深刻だ。努力が報われず、社会の分断や不安定化を招いている。

このように、教育水準が高いからといって、必ずしも良い社会が生まれるとは限らないことがわかる。

1人あたりGDPを上げるためには教育水準の向上は不可欠であるものの、教育水準ばかりが独り歩きする状態は、かえって国益や社会の利益に反する場合もある

では、日本における学校教育の現況はどうだろうか。筆者は、日本における教育システムの副作用として、以下のような点を指摘したい。

・学んだ内容を実生活で活かせない
・暗記中心で応用が効かない
・学問のために、本当に自分のやりたいこと・成し遂げたいことを犠牲にしている
・周りに合わせるために個性を押し殺している
・過度な受験戦争で消耗している
・人と違う行動ができず、独創的な思考や挑戦への気力がない

これらは高い教育水準の裏に隠された、今の日本式教育におけるネガティブな側面だ。

教育がうまくいっているかどうかは教育水準だけで判断するのではなく、国民社会や経済にとってプラスになっているか(=国益や社会の利益に資するか)という、より広い視点から考える必要があろう。

経済停滞と不信感の高まり

世界をリードする最先端の研究開発や技術力、独自の文化など、日本が世界に誇れる強みはたくさんある。学校教育は、こうした日本社会で活躍する人々の基礎をなしていることは言うまでもない。

だが、ここ30年間、日本国内では閉塞感や停滞が見られるのもまた事実だ。日本の国際的地位は下がり続け、国内経済は鈍化。給料は上がらず、将来への希望を見出せない若者は多い。

実際、内閣府の「我が国と諸外国の若者の意識に対する調査」(平成25年度)によれば、「将来に希望がある」と答えた日本の若者は61.6%。米・スウェーデンの9割以上、英・仏・独の8割以上と比較しても、かなり低い数値だ。

ここからわかるのは、自国や自分自身の将来を悲観している若者は多く、社会全体への不信感は高まっているということだ。若者の不信感は親世代や教育者にも向けられ、教育そのものへの信頼も揺らいでいる。

使命を忘れた日本式教育の末路

人口減少が進む日本。日本の教育者は子どもたちの個性を尊重し、強みを伸ばすことで「少数精鋭」の成長国家を築く使命を負っているはずだ。ましてや、今後稼ぎ手となる若者自身に、将来を悲観させるような環境をつくってはならない。

だが、今の日本の教育環境を見る限り、教育はこうした使命をすっかり忘れ、若者の意思や個性を軽視し続けている。過去の栄光にしがみついた”ガラパゴス教育”が、教育に新しい文化や価値観を取り入れる機運を失わせた。

「学校とは組織の中でうまくやっていけるかを学ぶところだ」「昔は体罰なんて当たり前だった」「先生の言うことを聞きなさい」「体を張って覚えろ」

こうした言説を”洗脳”のように叩き込む教育者によって、若者たちの自由な発想や行動の芽は完全につぶされてしまった。

こうしたことを言うと「他責思考だ!」と反論されるかもしれない。だが、無価値な教育や言説を流布し、意思形成過程の若者に不合理ばかりを押し付ける教育者の方が、よっぽど他責思考だろう。

教育への不信感の高まり、若者の無関心・無気力を進行させたこと、ガラパゴス教育を放置し続けたこと。こうしたことは紛れもなく教育者自身の責任であり、国力の衰退が加速した要因となっている。

日本式教育の構造的欠陥

なぜ、日本の教育は失敗したのか。俯瞰してみると、教育者の個々の素質にとどまらず、日本の教育システム自体の構造的な問題が浮かび上がってくる。

見えてくるのは「質の悪い教育を量産している状態」だ。

質の悪い教育

まず「質が悪い」というのは、教育内容や方針が粗悪で、時代錯誤である点だ。

一見、教育水準という指標だけでみれば、日本の教育の質は高く見えるかもしれない。だが、若者の成長力や個性を失わせ、社会への不信が高まるほど、大きな”欠陥”を持ち合わせていたことは前述の通りだ。

具体的には、以下のような課題が指摘できる。

<質の悪い教育>
・個性をつぶす「全体主義的」な教育方針
・個のスキルアップが阻害され、組織の平均値を上げることが最優先課題とされる
・無気力を生み出す「恐怖政治」的指導体制
・不合理なルールの押し付け・不適切指導
・教員や教育機関の知的レベル・法的リテラシー・倫理観の欠如

加えて、上記のような目に見える不良ばかりでなく、筆者は「学校文化そのもの」から課題があると感じている。

例えば、クラス単位で競い合う時、スローガンとして「一致団結」や「絆」といった言葉を使いたがる。これは、個を押し殺し、クラス全体のために尽くすよう”扇動”を行っているにも等しい。

集団行動への参加強制、運動会や合唱コンクールといったチーム戦、クラス対抗など、「個人<全体」を潜在意識に刷り込ませている。

さらに問題なのは、「成長を望む者」の足を引っ張ることまで強要する点だ。例えば、得意な分野を極めたい生徒は、他の生徒を待たずにどんどん先に進みたいが、そうしたことは許されない。

こうした粗悪な教育がいつまで経っても改善されないのは、教育機関内・教員同士の縦社会、管理責任の押し付け合い、事なかれ主義といった、現行の教育システムの構造的欠陥が起因しているからといえるだろう。

低レベルな教育を量産している

そして、こうした粗悪な教育が、局所的ではなく全国的に敷かれている点も大きな問題だ。

「いじめを学校と教育委員会が隠蔽した」「教員が生徒に不適切指導をした」といったニュースは後を絶たない。なぜ後を絶たないかと言えば、低レベルな教育が”量産されている”からだ。

例えば、公的教育であれば、基本的には教員免許を持っていることが教員になる条件である。だが、教員免許を持っているかどうかと、教育者としての素質があるかどうかは別問題だ。

確かに、教育機関側としては教員の成り手不足から、質の低い教員を多数配置せざるを得ないという事情もあるだろう。だが、そうであれば、ルール通りに運用することが目的と化した、教育の本質を見失ったシステムであるともいえる。

日本式教育の構造的欠陥が浮き彫りになる中、信頼回復のためにはシステム自体を抜本的に見直し、教育の質を均一的に向上させる必要がある

もくもく
もくもく

システムを見直すといっても、具体的に必要な取り組みはなんだろう?

教育の質を上げるためにできること

まず、質の悪い教育を改善するためには、学校という組織にこだわらず、質の高い講師を選抜する仕組みが必要だろう。幸いにも、オンライン環境が整った現代において、この取り組みは現実味を帯びてくる。

例えば、学力向上の面でいえば、一流の講師陣がオンラインで授業を行う「東進ハイスクール」のような形態が参考になる。優秀な教師が生徒のレベルに応じた授業を提供することで、今よりも高い質を担保し、生徒の能力に応じた学習環境を整えることができる。

社会性を身につけるという観点でいえば、なにも学校という枠にとらわれる必要はなく、サークルや部活動といった課外活動を推奨することで育むことができる。

もくりん
もくりん

でも、なかなかハードルは高そうだね。

あいにく、こうした変革は、凝り固まった現行の制度において今すぐ期待できるものではない。時間もかかる上、法的なハードルの高さ、既得権からの反発など、実現の目処は立たない。

そこで、直近で取り掛かることが可能な、信頼回復に向けた取り組みついて具体案を挙げてみよう。

まずは、教員を生徒がフィードバックし、それを教員の人事評価や異動に反映させる仕組みだ。質の悪い教育者は除外し、質の高い教育者を生徒自身に選んでもらうことで、ある程度の質の向上が見込まれる。

それから、校則やルールは自分たちで決めること、不合理なルールは自分たちで廃止する仕組みを整えることが必要だ。こうした環境下においては、教員はあくまで自主運営のサポート役に徹することになる。

これらの取り組みを経て、若者たちはようやく教育への信頼を取り戻しはじめることだろう。教育とは誰かが一方的に押し付けるものではなく、教育者と被教育者の双方が信頼し合うことで、はじめて成り立つものなのだ。