有名人のスキャンダルなど、テレビや新聞では報じにくい情報を真っ先に発信する週刊誌。
中には、芸能人に対するプライバシーの侵害が疑われたり、確証がないままの情報や、過激な表現を掲載している記事も多い。
そんな週刊誌の存在は、社会にとって”悪”なのだろうか?
今回は、週刊誌報道の功罪と、表現の自由に対する規制のあるべき姿について考えてみたい。
週刊誌報道と表現の自由
個人や団体が自由に物事を考え、発信する。
当たり前のことではあるが、これは人々が生まれながらにして有する固有の権利であり、日本国憲法によっても明記されている。
日本国憲法第21条においては、国民は自由に表現活動を行うことができるとされ、国家権力が害することは認められない。
日本国憲法第21条
第1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
第2項 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
正当な民主主義社会を構成するためには、自由闊達な意見交換は欠かせないのである。
では、そうして国民の権利として認められた表現の自由が「歪められた」場合はどうなるだろうか。
問題となるのは、対になる個々の権利と干渉した場合である。
例えば、芸能人や政治家のプライベートが本人の同意なく公開された場合、プライバシー権の侵害が問題となる。
また、社会的評価を低下させる内容であれば、名誉権の侵害に該当する可能性もあるほか、近年はSNS上での誹謗中傷の被害も問題となる。
こうした、表現の自由と個々の権利が衝突しがちな「グレーゾーン」を主戦場として、出版を続けるのが週刊誌だ。
週刊誌報道とテレビ・新聞の違い
では、週刊誌とテレビ・新聞の違いは何だろうか。
まず、テレビについては、はじめから表現の自由には一定の制限がかけられている。
根拠は、放送法第4条第1項だ。
放送法第4条第1項
(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
テレビに規制が許される根拠としては、電波が有限であること・国民の共有物であることとされる場合が多い。
一方、新聞や週刊誌については、放送法による報道規制はかけられていない。
そのため、ある程度自社の「裁量」で報道することが可能となる。
そのうえで、週刊誌と新聞が決定的に違うところは、「報道の確度」だろう。
新聞には”報道”と”論評”があるとされるが、報道においては、できるかぎり正確に裏を取り、真実を追及することでユーザーの信頼を得ている。
それに対し、週刊誌報道は、タレコミや伝聞をもとに作成される記事もあり、必ずしも情報の確度は高いとはいえない。
週刊誌は「大衆紙」とも言われるが、読者には情報を取捨選択するリテラシーが求められ、むしろ情報の取り扱いにかかる難易度は高いようにも思える。
週刊誌の与えた”よい影響”
ここからは、週刊誌の果たしてきた”よい影響”と”負の側面”をみていきたい。
週刊誌報道はなにかと敵視されがちではあるが、必ずしもマイナス面だけではない。
情報の確度の強弱はあれ、多様な言論こそが民主主義を構成する根源でもあるからだ。
テレビや新聞において「タブー」とされたきたことに、「無敵」の週刊誌は切り込んでいく。
これにより、国民の知る権利を充足させ、新たな問題が提起される。
お隣の香港では、政治を批判すること自体が許されないというのだから、こうした言論が交わされるのは、国家が「自由」である証拠でもあるのだ。
週刊誌の”負”の側面
とはいっても、週刊誌報道の”負の側面”を無視することはできない。
行き過ぎた表現の自由が、たとえ有名人であれ個人の権利を侵害することになれば、多数派と少数派の共生を目指す「民主主義の精神」に反するからだ。
芸能人や政治家、どんな犯罪者であれ、一人の人間として法的・社会的に尊重される必要があるのはいうまでもない。
確かに、個人の権利として尊重される「度合い」は違うかもしれない。
例えば、有名人と一般人で許容されるプライバシー権の範囲が違うのは、以下の判例によって示されている。
◆「おっかけマップ事件」神戸地裁尼崎支部平成9年2月12日付判決
事案:宝塚歌劇団に所属する原告Xらは、Y社の発行した書籍「タカラヅカおっかけマップ」に私事にわたる情報を掲載されたため、プライバシー権・肖像権の侵害により本書籍の出版禁止を求めた。
(本書籍では、Xらの生年月日・血液型・身長のみならず、スターとしての特性や能力、一部の者については家業や資産、住所、最寄り駅からの道順を地図で示すなどしていた。)
裁判所の判断(原文ママ)
各X個人の住居情報の部分を除くその余の記述の範囲及び程度のものは、著名な芸能人に関しては一般の芸能関係の情報雑誌でも紹介を行っているところであり 〜中略〜 右記述部分がXらのもっぱら私的に属する事柄をみだりに公開し、プライバシーを侵害したものとまでは言い難い。
要するに、住居情報についてはプライバシーの侵害に該当するものの、それ以外については芸能人である以上プライバシーの侵害とまではいえないという判断を下したのだ。
こうした「社会の正当な感心事」とされる場合には、プライバシーの権利が認められない場合もある。
しかし、この平成9年の判決当初とは、社会環境は大きく様変わりした。
SNS上での拡散が頻発する現代では、個人のプライバシーを害する報道も、瞬く間に拡散されてしまうのだ。
さらには、報道をもとにした”二次被害”も起きている。憶測が憶測を呼び、先鋭化した不特定多数が誹謗中傷行為に走る。
こうした一連の動きを目の当たりにした時、表現の自由を盾に「有名人の権利の弱さにつけ込む」ことが正当な言論活動なのか、疑問に感じることもあるだろう。
社会環境が変化したにも関わらず、同じ形で報道を続ける週刊誌。
これまでであれば、部屋の隅っこで”ぼやいているだけ”の存在が、一躍「悪目立ち」するようになってしまったのである。
週刊誌報道の規制は必要?
では、このような時代において、週刊誌報道はどうあるべきなのか。多少の規制はあって然るべきなのだろうか。
筆者は、行き過ぎた表現の自由に批判はしつつも、国家による規制(外在的制約)は加えるべきではないと考えている。
それはなぜか。
国民の「表現の自由」を狭めることは、大きな「副作用」を伴うからだ。
99パーセントの人にとっては気に入らない表現でも、1パーセントの人にとっては、自己実現のために役に立つ表現かもしれない。
そのような少数派の意見も含めて「言論」が交わされることこそが、表現の自由の本質的な価値なのである。
一度規制を始めてしまえば、それを取り戻すことは何百倍もの労力がかかるし、下手したら血が流れる争いになるかもしれない。
だからこそ、国民が権力やメディアの暴走を”監視”し、誤っているものには声をあげること。扇動的・過激な情報からは一歩引き、リテラシーを持って冷静に見ることが大切だ。
自分の中で「情報フィルター」をつくり、「良い情報」と「質の悪い情報」を適切に抽出できるかどうか。
誰もが自由に発信できる今だからこそ、国民一人ひとりの「良識」が問われる時代なのではないだろうか。